「七夕伝説ゆかりのまち」として知られる大阪府枚方市。
天野川の流れを”天の川”に見立て、平安時代の人々はこの地で星の願いを込め、たくさんの和歌を詠みました。
この地に伝わる七夕伝説は、中国から渡ってきた物語や風習が、日本の四季や文化と溶け合いながら育まれたものです。

そもそも七夕伝説とは?
そもそも七夕とは、天の川をはさんで離ればなれになった「織姫」と「彦星」が、年に一度だけ再会できるという恋の物語。
一説によると、働き者だった機織姫に恋人の牽牛(けんぎゅう)を授けた天帝が、2人が遊びに夢中になり仕事を忘れたことに怒って天の川で引き離し、7月7日だけ会うことを許した──という話が広く伝わっています。

この物語は、紀元前の中国の詩集『詩経』にも登場しており、6世紀ごろには七夕の夜に手芸の上達を願う「乞巧奠(きっこうでん)」という行事も生まれました。

その後、朝鮮半島を経て日本に伝わり、交野ヶ原(現在の枚方市・交野市一帯)に息づいていったと考えられています。
桜の名所でもあった交野ヶ原では、白く輝く天野川の川砂を「天の川」に見立て、七夕をテーマにした歌が多く詠まれました。

『伊勢物語』には、在原業平が「狩り暮らし棚機津女に宿借らむ、天の河原に我は来にけり」とこの地で詠んだ歌も残されています。
現在の枚方市内にも、七夕にまつわる地名や名所が数多く点在しており、毎年七夕にちなんだイベントも開催されています。
この記事では、そんな七夕の歴史やロマンをたどりながら、枚方で七夕の魅力を感じられるスポットをご紹介します。
七夕スポットMAP
枚方市では、地域資源である「七夕」を市内外に広く発信するため、「七夕伝説ゆかりのまち・枚方市」のPRや郷土愛の醸成に向けた様々な取り組みを進めています。

①歴史とロマンが息づく、川の物語「天野川」(交野市~枚方市)
七夕の夜、織姫と彦星が天の川で年に一度だけ会えるというロマンチックなお話。
その舞台として伝わる川が、実は枚方・交野エリアに流れる「天野川」なのです。

天野川の名前の由来は「甘野川」?
天野川という名前は、昔このあたりが「甘野(あまの)」と呼ばれていたことから来ていると言われています。稲作が始まったころ、人々がこの地の川を「甘野川」と呼び、やがて「天野川」へと変わっていったそうです。
星がきらめく夜空と川面に映るその光。そんな幻想的な風景を愛した平安時代の人々が、この地を”天の川”になぞらえて、たくさんの歌を詠んだとも伝えられています。

平安貴族が愛した、歌と桜の名所
平安時代、交野ヶ原一帯は貴族たちに人気のスポットでした。狩りやお花見、そして風情ある歌会の舞台として親しまれていました。

天野川のほとりでも歌会が開かれ、在原業平や藤原為家などの歌人たちが、美しい自然と七夕をテーマにした和歌を数多く残しています。
たとえば『伊勢物語』には、業平が渚院からの帰り道に天野川の川辺で詠んだとされる歌も登場しています。
変わりゆく川の風景
天野川の姿も、時代とともに少しずつ変わってきました。
鎌倉時代には、大雨で川が渡れなくなったという記録も残っていますし、江戸時代には現在よりもずっと川幅が広く、平均で約126メートルもあったそうです。(今の約3.7倍!)

天野川は、風景とともに人々の暮らしの中にあり、歴史を見守り続けてきた存在でもあります。
羽衣伝説の残る川

天野川には、もうひとつ素敵な伝説が残っています。
ある日、天女がこの川で水浴びをしていたところ、羽衣を隠されてしまい、地上で人間と暮らすことに。けれど、やがて羽衣を見つけ、空へと帰っていく──という「羽衣伝説」です。
この物語は全国各地に似た話がありますが、天野川のような美しい場所だからこそ、こうした伝説が語り継がれてきたのかもしれません。
自然と空気に恵まれた天野川流域は、今も変わらず、訪れる人の心を癒してくれる場所です。
②伝説が羽ばたく場所「かささぎ橋」(新町)

静かに流れる天野川。その上にそっと羽を広げる2羽のかささぎたち。
枚方市新町一丁目にかかる「かささぎ橋」は、まるで七夕の物語から抜け出してきたような、幻想的な風景が広がる橋です。
かささぎが橋をかける、七夕の物語

中国の七夕伝説に登場する「鵲(かささぎ)」は、年に一度、織姫と彦星が出会うために羽を連ねて橋をかけるといわれています。
このロマンチックな伝説が地名と結びつき、いつしか天野川にかかるこの橋は「かささぎ橋」と呼ばれるようになりました。
現在の橋は1996年に架け替えられた鋼鉄製。
橋の両端には、羽を大きく広げた2羽のかささぎのモニュメントが設置され、まさに“伝説がかたちになった橋”として、多くの人の記憶に残る風景を生み出しています。

歴史を歩んできた橋のかたち
かささぎ橋の歴史は、実はとても長いもの。

江戸時代、この地に常設の橋をかけることは幕府によって禁じられており、人々は「川越人足」という人の手による渡し舟で天野川を行き来していました。紀州徳川家が参勤交代でこの地を通る際にだけ仮橋が設けられ、通行料を徴収していたことから「錢取橋(ぜにとりばし)」という別名でも知られていました。
明治時代になってから、ようやく木造の常設橋がつくれたのがはじまり。
その後、1932年にはコンクリート橋へと変わり、1996年には現在の景観に配慮した鋼鉄製の橋へと生まれ変わりました。
橋を渡れば、伝説の世界が続く
かささぎ橋は、天津橋とともに、七夕伝説を視覚と体験で味わえるエリアの大切な一部です。


かささぎ橋も天津橋も、交通量の多い橋なので何度も通ったことがある方も多いと思います。知らなければ通り過ぎてしまうモニュメントや装飾ですが、改めてゆっくりと眺めながら歩いてみるのもいいものですよ。
東には「機物神社(はたものじんじゃ)」、西には「観音山公園・牽牛石(けんぎゅうせき)」。
織姫と彦星の舞台をつなぐ中継地点として、まるで“星の道”のような役割を果たしています。
橋のたもとに立つと、鎌倉時代の女流歌人・中務内侍が詠んだ歌が思い出されます。
これやこの 七夕つめの 恋渡る あまの河原の かささぎのはし
(中務内侍)
古の恋に思いを馳せながら、そっと橋を渡ってみてください。
夏になると、この場所も「天の川七夕祭り」の会場のひとつとして賑わい、枚方の人々が大切に伝説を守り続けている場所でもあります。










③七夕伝説の出発点「天津橋」
天野川にかかる「天津橋(あまつばし)」は、枚方に伝わる七夕伝説に欠かせないスポット。


京阪「枚方市駅」から歩いてわずか5分。便利な場所にありながら、橋の上に立つと、まるで時間がゆっくりと流れ出し、昔話の世界に迷い込んだような不思議な気持ちになります。


「天の港」という意味をもつ、物語の出発点


天津橋の名前は「天の港」を意味するといわれています。
天野川を“天の川”と見立てたとき、織姫と彦星が年に一度、この橋から出会いの旅を始める――。そんな素敵な伝説がこの地に根づいているのです。
橋の欄干には、織姫と彦星がかささぎの羽でできた橋を渡る様子が金属レリーフで表現され、歩道には星をかたどったアートが並びます。


足元に視線を落としながら歩くだけで、まるで物語の中を散策している気分になります。






歴史に刻まれた七夕の祈り
天津橋の由来は、平安時代にまでさかのぼります。
桓武天皇がこの地・交野ヶ原にて国家安泰を願い、北極星を祀ったという記録が残っています。
当時、道教の星への信仰と、日本の「棚機津女(たなばたつめ)」信仰が融合し、天津橋周辺では独自の七夕文化が生まれました。
在原業平がこの地で詠んだとされる和歌も残されています。
狩り暮し 棚機津女に 宿借らむ 天の川原に 我は来にけり
(在原業平)
――天野川の風景と七夕の情緒を象徴する一首。
七夕の夜に、星に願いをかけた平安の人々の祈りが、いまも静かに橋の上に流れているようです。


今に受け継がれる”願いの架け橋”
2018年には、市民の寄付により「しあわせのモニュメント」が橋の中央に設置されました。


俳優・川崎麻世さんがデザインした、カラフルなタイルと星型のオブジェ。織姫と彦星がモチーフとなったその姿は、訪れる人々に「出会い」や「願いが叶うこと」への想いが込められています。
さらに天野川の少し下流には「鵲橋(かささぎはし)」もあり、二つの橋が伝説を再現するようにペアで存在。
空の物語を地上に映し出すような美しい構図は、訪れた人の心を打ちます。


④観音山公園の「牽牛石」(香里ケ丘)


七夕の夜、天の川を挟んで一年に一度だけ出会う織姫と彦星。
その物語が、ひっそりと地上に描かれている場所があるのをご存じでしょうか?
それが、枚方市香里ケ丘にある観音山公園。


園内の丘の上に佇む、大きな石——それが「牽牛石(けんぎゅうせき)」です。







細い坂道を登っていくので、うっかりすると見落としてしまいそうな場所に!
地上に描かれた星物語のかけら
この石はもともと「牛石」と呼ばれていました。


1959年、地元の歴史研究家・片山長三氏が、交野市にある「機物神社(織姫)」と天野川を挟んで向かい合う場所にあるこの石に着目。彦星の象徴として「牽牛石」と名付けたのです。
中国から伝わった七夕伝説を、地元の風土に重ねるように再構築。今ではこの石のそばに牽牛像も置かれ、織姫と彦星が「かささぎ橋」で結ばれる、幻想的な世界観が完成しています。


牽牛像は2007年に全国七夕サミットの開催を記念して建てられました。


地名と伝説が織りなす風景


ここには少し面白い逸話も。
「牽牛=牛飼いの青年」に対して、命名前の「牛石」は地元では”牛の形”に見える石という地元の解釈もあったそうで、ちょっとしたイメージのズレも。しかし、そんな違いがあったからこそ、新たな物語が生まれ、この地域ならではの七夕文化が自然と花開いたのかもしれません。


万葉の時代から現代へ
牽牛石の背景には、万葉集の山上憶良が詠んだ「彦星の 妻迎へ舟」、在原業平の「狩り暮し 棚機津女に 宿借らむ」など、古代から紡がれてきた文学の風も吹いています。
昭和になってから再び語られるようになった七夕伝説は、古代中国の神話、平安時代の和歌、江戸の地誌『河内名所図会』など、さまざまな時代の記憶を巻き込みながら、「星のまち交野・枚方」という地域の物語になっていきました。


七夕の夜は、地上の天の川を歩いてみよう
牽牛石がある観音山公園は、天野川の蛇行と周囲のなだらかな丘に囲まれ、まさに”星空が舞い降りたような場所”。


七夕の時期のイベント時には牽牛石とその周辺がライトアップされて、ほんのりと浮かび上がる光が、人々の願いをやさしく包み込みます。
空を見上げるだけじゃない、歩いて感じる七夕の物語——
牽牛石は、その入り口かもしれません。
〜番外編①〜七夕伝説の”文化的ふるさと”「百済寺跡」(中宮西之町)


機物神社の織姫、星田妙見宮の牽牛、観音山公園の牽牛石——
七夕伝説が根づく交野ヶ原の中で、物語の”はじまり”に立ち返るような場所があります。
それが、枚方市中宮西之町に広がる「百済寺跡(くだらでらあと)」です。
今は松林に囲まれた静かな史跡公園ですが、かつてここは、大陸からの渡来文化と日本の古代信仰が交差する”交野ヶ原の文化の中心”でした。


古代の国際都市を思わせる、特別史跡
百済寺が建てられたのは8世紀後半のこと。
百済王敬福(くだらのこにきし けいふく)が、一族の氏寺として創建しました。
百済が滅亡したあと、日本に渡ってきた王族の末裔たちは、この地に暮らし、星を信仰する文化や織物の技術を伝えています。


昭和27年に、百済寺跡が「大坂城跡」と並んで特別史跡に指定されたのは、この場所が日本とアジア大陸をつなぐ、歴史的にとても重要な場所だったから。
お寺の伽藍は、奈良・薬師寺と同じ東西両塔式。中央に金堂を据えた配置の美しさは、いまも礎石によって感じ取ることができます。







礎石は当時の建物の柱の下に設けられていた、基礎となる石。この大きさの柱が上の写真のような規模感でずらりと並んでいたら…上に建てられていた建物は相当大きなものだったと推測できます。
星に祈った天皇と、天野川の物語
百済寺跡を語るうえで欠かせないのが、桓武天皇とのつながりです。
彼の母・高野新笠は百済系渡来人であり、桓武天皇は交野ヶ原に星を信じる文化を持ち込みました。
天野川を”天の川”に見立て、百済寺の周辺で北極星を祀る儀式を行ったとも伝えられています。
つまり、織姫や彦星といった物語が交野ヶ原で根づいた背景には、百済寺跡という”星への祈り”が実際にあった地があったのです。
文化と伝説が重なり合う舞台


百済寺跡は、直接的に七夕伝説が語られてきた場所ではありません。
しかし、百済王族がもたらした天文学・機織文化・精神性は、織姫信仰や星神信仰の土台となっていきます。
1989年には「百済寺幻想」というミュージカルが上演され、古代寺院と七夕伝説を結び直す新たな物語が誕生。
地上に残る、星への入り口
松林のなかに静かに並ぶ礎石群。


そこにそっと立ってみると、まるで千年以上前の夜空を見上げているような感覚になります。
天野川までは、ここから東へおよそ1km。
天と地が交わり、物語が始まった”文化的七夕のふるさと”が、ここにあります。
静けさの中に流れる星の記憶に、ぜひ一度、耳を澄ませてみてください。



なお、現在百済寺跡には、当時の建造物をイメージできるような掲示板が設けられています。建物は実際にはありませんが、パネルの写真をイメージしながら想像を膨らませてみてくださいね!




〜番外編②〜天皇も愛した星月夜の別荘「渚院跡」(渚元町)
かつて天皇たちが交野ヶ原の自然と星空を愛でた場所——
それが、渚元町にある「渚院跡(なぎさのいんあと)」です。


今は住宅地にひっそりとたたずむこの場所に、かつての平安の雅が息づいていたことをご存じでしょうか。


天皇たちが星を見上げた、交野ヶ原の「天の川」
771年、光仁天皇が交野ヶ原に頓宮を築いたことから、渚院の歴史が動き出します。
その後、桓武天皇や嵯峨天皇にも受け継がれ、天野川を「天の川」に見立てる幻想的な世界観が広がっていきました。
夜空に星を探し、静かに祈りをささげた天皇たちの面影が、今もこの地に残っています。


惟喬親王と在原業平が見た、美しさと哀しみ
渚院跡にまつわるもう一つの物語に、惟喬親王(これたかしんのう)と在原業平(ありわらのなりひら)の存在があります。
皇位をめぐる争いに敗れ、心を癒やすためにこの地を訪れた惟喬親王。
そのそばには、あの有名な歌人・在原業平もいました。
『伊勢物語』には、ここで詠まれた和歌や、桜の下での遊猟の情景が描かれています。


世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
(在原業平)
そんな一句に込められた切なさと美しさが、風に乗って今も感じられます。
まちとともに生きる、歴史の記憶
渚院跡には、江戸時代の鐘楼や梵鐘、そして儒学者・林鶯峰(りんおうほう)による漢詩碑など、時代を超えて受け継がれてきた文化のかけらが残されています。










今も地元の方々が史跡の清掃やガイド活動を行い、桜の木を植え、この場所の魅力を未来へつないでいます。


以上、少し長くなってしまいましたが、七夕にゆかりがある枚方市のスポットを5つご紹介しました。
夜空に天の川が広がる季節。
枚方の地に息づく七夕の面影は、遥か昔から人々の想いや文化とともに受け継がれてきました。
歴史を知ることで、いつもの景色が少し違って見えてくるかもしれません。
この夏は、空を見上げるだけでなく、地に残された「星の記憶」を辿ってみませんか?



歴史や物語にふれながら、静かに星を見上げる時間――そんなひとときを味わいに、また訪れたくなる場所ばかりです。